おおとも かつひろ大友 克洋
生誕 (1954-04-14) 1954年4月14日(70歳)
日本・宮城県
職業漫画家
映画監督
イラストレーター
デザイナー
称号芸術文化勲章
紫綬褒章
活動期間1973年 -
ジャンル青年漫画・SF漫画
代表作.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul{line-height:inherit;list-style:none none;margin:0;padding-left:0}.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol li,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul li{margin-bottom:0}
『童夢』
『AKIRA』
受賞
第10回日本漫画家協会賞
第13回・第15回星雲賞
第4回日本SF大賞
第8回講談社漫画賞
第41回アニー賞ウィンザー・マッケイ賞
テンプレートを表示
大友 克洋(おおとも かつひろ、1954年4月14日 - )は、日本の漫画家・映画監督[1]。宮城県登米郡迫町[注 1]出身[2]。血液型はA型[1]。息子はイラストレーターの大友昇平(SHOHEI)。
ペンタッチ
に頼らない均一な線による緻密な描き込み、複雑なパースを持つ画面構成などそれまでの日本の漫画にはなかった作風で、80年代以降の漫画界に大きな影響を与えた。1988年、自作を元に自ら制作したアニメーション映画『AKIRA』は日本国外でも高い評価を得て、「ジャパニメーション」と呼ばれる、日本国外における日本アニメムーブメントのさきがけとなった[3]。
近年は主に映画監督として活動している。日本SF作家クラブ会員だったが2023年2月時点では退会している。 東北の田舎に生まれ、何もすることが無かったので、幼少の頃より漫画をたくさん読んで育った[4][5]。絵を描くのが好きだったので、小学生の頃は『鉄腕アトム』や『鉄人28号』をよく模写していた[4]。 中学時代に石ノ森章太郎のマンガ家入門を読んだのをきっかけに、本格的に漫画家を志すようになる[4]。 宮城県佐沼高等学校に入学[1]。その頃から映画に興味を持ち始め、一時漫画から離れて映画漬けの日々を送る[6]。またイラストにも興味を持つようになり、将来はプロのイラストレーターか映画監督になりたいと思うようになる[4]。しかし、一人立ちを考えて漫画を描き始め、1971年末に処女作『マッチ売りの少女』を執筆[6]。手塚治虫の雑誌『COM』や『りぼん』に数度投稿を行う[7]。高校を卒業すると上京し、以前友人に紹介されて漫画を見せたことのある双葉社の編集者に連絡を取り、採用される[4]。 1973年、『漫画アクション』(双葉社)にて「銃声[注 2]」でプロの漫画家としてデビュー[8]。以後、『漫画アクション』の本誌・増刊で若者の日常を描いた短編作品を発表。次第にニューウェーブの作家として一部の漫画読者からは知られた存在になって行く[9][10]。 1978年、描きためておいた「ヘンゼルとグレーテル」を『ヤングコミック』(少年画報社)に持ち込み、掲載される。以降、『アクション』以外の漫画雑誌やSF雑誌へと活躍の場を広げ、西洋に題材をとった話やSFなどを発表するようになる[10]。 1979年、初の単行本となる自選作品集『ショートピース』刊行[11]。
経歴